今回は私が大きな影響を受けた、J.D.サリンジャーの小説『ライ麦畑でつかまえて』のことをお話しします。

『ライ麦畑でつかまえて』を読んだことはありますか? 言葉使いに問題があるとされてアメリカでは読むことを禁じる州があった本です。私はこの本と中学生の時に出会いました。たいへんな衝撃を受けて毎日読んでいたほどです。

退学処分になった高校生のホールデン君が主人公です。彼が学生寮を飛び出して、あてもなく孤独に冬のニューヨークの街をさまよった時の話を、彼の横で聞いているような文章で話は進みます。

とても口の悪い主人公が、悪態をつきながら「でもこんなのってないよ。おかしいと思わない?ひどいインチキじゃない?」と、社会や世界に疑問を投げかけるようなお話です。その疑問は彼の幼稚さやワガママから来ているものもありますが、それでも(言われてみれば確かにそうかも)と読者が常識を疑うことも中にはあるかもしれません。思春期まっさかりの私には非常に共感できる内容でした。そうだ世の中なんて見栄っぱりと建て前の嘘ばっかりだ、というわけです。

そのうち月日と経験を重ねて大人になると、そういったインチキも社会のためにある程度必要な事である、という事がわかってきます。社会の中で生きていくためにはそういうこともあるよねと。
しかし、それでも、ずうっと私の心に刺さったままのホールデン君の言葉があるのです。

「とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしているとこが目に見えるんだよ。 ~中略~ で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ――つまり、子供たちは走ってるときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっかから、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げてることは知ってるよ。でも、ほんとになりたいものといったら、それしかないね。馬鹿げてることは知ってるけどさ」
『ライ麦畑でつかまえて』野崎考訳

私もそうなりたい、と思っているのです。今でも。