前回の続きです。
母の病気とパニック症
仕事のストレスと群発頭痛の発作の激痛によって、かなり私は追い込まれていました。そこに追い打ちをかける出来事が起きます。
母が死病で余命宣告を受けたのです。
母の入院した病院は家から特急電車で2時間ほどかかる場所でした。緩和ケア病棟、いわゆるホスピスに入った母を見舞うために週に何度も通いました。もちろんその間も仕事と頭痛は続いていました。
数か月ほどそのような生活を続けていたある日、私は意味のわからない恐怖にとらわれます。心療内科で診てもらったところ、パニック障害とのことでした。これ以降、電車や人混み、狭い乗り物に乗るとパニック発作を起こすようになります。
この状態は明らかにストレスの重なりすぎです。仕事・群発頭痛・パニック障害。この時期は鬱や希死念慮からの自殺等の危険が非常に高かったと自分でも思います。そうならずに済んだのは母の姿を見ていたからでした。
私のパニック発症から間もなく母は亡くなりました。母はまだ若く、年金すら受け取れる年齢ではありませんでした。意識ははっきりしていたので自分の余命わずかなことを理解しており、迫る死の恐怖はすさまじかったはずです。しかし意識を失う最後のときまで理性と知性を失わず、尊厳を保ったまま亡くなりました。おかしな言い方かもしれませんがとても格好良かった。そうだ、この人の血が流れているならば、私もまだまだ戦えるはずだ、と思えたのです。
その後、東日本大震災が起こりました。パニック障害を抱えて余震が続く都会での生活は厳しく、間もなく私は東京での生活に区切りをつけることを決断しました。友人たちや住み慣れた東京から離れるというのは勇気のいる選択でした。将来への不安もありましたが、ストレスの回避を優先し、生き方を変えることにしました。
地方で生活し、満員電車や人混みから解放された私のパニック障害は快方に向かいました。今は無理をしなければ普通の生活ができます。幸いなことに群発頭痛の方もその道ではかなり有名な専門医が市内に開業していることもわかり、そちらで診てもらっています。治りはしていませんが、難病奇病を抱えている人間にとって専門医が近くにいるというのは大変恵まれていることです。
大震災の後
自分のストレスが軽減されていくにつれ、いろいろなことを考えられるようになります。辛かった子供時代を思い出し、あの気持ちを今まさに味わっている子供がいるだろうということ。それから、つらい職場環境で自分と同じように苦しんでいた会社の同僚や、仕事で関わってきた弱い立場の女性たちのこと。群発頭痛のような理解されにくい病気で苦しんでいる人たちのこと。家族を失ったり、失いそうな人たちのこと。
私はなんとか生き残ることができました。私は、あの時々の私のような状態の人たちの力になりたい。そういう思いで大学の授業以来離れていた心理学を学びなおし、心理カウンセラーの資格をとりました。耐えている人、つらい思いをしている人に寄り添い助力できるように、これからも精進を続けていきます。
長くなってしまいました。最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。